自分は知らない、という事

自分には分からない、複雑な、知らないもの。人々の中には、そういうものを見つけると徹底して無視し、無駄なものと見なし、さらには特に理由もなく悪いものと見なしたりする。今回の都条例の改正に伴う漫画バッシングは、これに当てはまっていると言えないだろうか。森林伐採は、人間以外の様々な生物を無いものと見なしてはいないだろうか。以前にあった東京都立大学の理系特化、今、大阪府立大学で進められている理系特化も、文系を無駄なものと見なしてはいないか。数年前にあった某知事の三国人発言はどうか。

自分が知らないものを見てそれを恐れるのが、生きていくのに必要なことであるのは否定できない。だけど、自分が知らないものを何でもかんでも極端に恐れ、それが消えたり排除されたりすることばかりを望むのは、かつてのナチズムのように、極めて危険なことではないだろうか。それは、意外と誰にでもある事なのかも知れないけれど。

僕は格好いい標語はあまり好きではないが、あえて作ってみると、
「無知を恐れるな。
ただし自分が知っている、理解したと思い込むことを恐れよ。」
(cf.博士の奇妙な思春期)
(どっかの名言にも偽りの知識を恐れよ、というのがあった気がするが・・・あれ?パクリになっちゃった??)
まぁ、「無知の知」そのものですが。

 言いたいことはまだある。それは、自分が知らない事でも大切なことは、いくらでもあるということだ。
 そして、他の人には分かっても、感じていても自分には分からない、ということも結構ある。焦ったり、分かったことにするのはあまり良くないのではないだろうか。わからないことを受け入れるしかないという時もあるのではないだろうか。
 特に、環境問題に関しては・・・人間は自然について分かったことは増えても、結局自然の「すべて」は決して分からないという事を受け入れなければ、差し当たっての問題群を解決しても、結局長くは生き延びて行けないのではないだろうか。

元ネタとか、おすすめとか(超あいまい):
ウェブ:
http://d.hatena.ne.jp/kanjinai/20091211
感じない男ブログ:  [雑記]大阪府立大学、文系学部切り捨てへ
本:
アル・ゴア「地球の掟」
森岡正博無痛文明論」(この人の本は全体的におすすめ)